STOP!ISAHAYA
<思いやりのあるコミュニティ宣言>
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のんきさんへのお返事です。 > お久しぶりです。 > のんきです。 > NHKスペシャル「村人は満州へ送られた~“国策”71年目の真実~」を見ました。 > 長野県下伊那郡旧河野村の村長の日記が公表された。 > 517戸2,900人の村では60人が徴兵されていた。 > 村長会議で派遣開拓団の割当が発表され、河野村は50戸だった。 > 満蒙開拓は拓務省の管轄で満州国に駐留する関東軍と連携してソ連国境地帯に入植した。農林省は農業省の権限を拡大しようと積極的に農民派遣を計画する。拓務省は農村に足場が無く、市町村に官僚を派遣している農林省にたよらざるを得なかった。たしかに諫早市にすら農水省幹部が派遣されてましたね。戦中から行なわれていたことなんですね。 > > それで、農林省は全国の市町村に派遣戸数を割り当てたというから、諫早市にも割当があったと思われます。 > 政府の計画は昭和11年から20年間で100万戸500万人。実際は10年で27万人を送ったところで敗戦です。 > > びっくりしたのは、村長の胡桃澤盛(くるみざわ もり/1905-46)が村民の説得を始めたきっかけは、補助事業だというのです。農林省は開拓団派遣を条件に農道や水路建設、共同設備建築を実施した言うのです。それでもう航路の安全さえ確保出来ない昭和19年8月、河野村から27戸95人が満州に移住。 > > 注目するのは、都会の市民は勤労動員で子供迄工場で働き、なべ釜を供出し、婚指輪迄差し出して、餓えに苦しみ、既に空襲も始まっていたときに、農村は補助事業のほ場整備事業が行なわれていたという事実に愕然としました。番組では実際に行なわれたかどうか言及しませんが、送り出したのに実施されなかったら、1万ページの村長の日記に不満が書いてある筈です。 > > 開拓団は45才以上の男性が関東軍に招集され女子供老人だけになったあと、ソ連軍に侵攻直後に、土地を取り上げられた中国農民に教われ、山に逃げたが、再び襲われ、逃げ道を断たれて集団自決する。14才で一人参加した男性だけが生き残って帰国し彼が最近事実を語り始めた。母親達は次々に赤ん坊や子供の首を絞めて殺す。男性も殺した。そして母親達も自決する。 > > 村長は終戦後、開拓民の行方が分からず、上京し外務省や農林省に出かけるがなんの情報も得られず帰村。隣村の開拓民が帰国して事実を知る。家に籠るようになり1年後に自殺。村では開拓団のことはずっとタブだった。 > > 犠牲によって村は基盤整備されたという事実が、沈黙を産んだのだと思います。 > 農林省と農民農村との貸し借りはこのときのことも含めてきっと戦争以前からいまで続いており、農水省が裏切れば、このときのことまで持ち出すこともあると思います。口に出さなくてもこういう事が背景にいくつもあって重しになるのでしょう。なんで諫早農民があんなにも国営事業を自分たちの権利であるかのように主張し、まっとうな説明もせずに国民にくってかかるのか、よほどの事情があるからだと思っていましたがその一端を見た様な気持になりました。赤ん坊を絞め殺す様な協力をしてきたのなら、見返りを要求しても不思議ではない。
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